2016年なのか熊本地震の時に破損したのを復旧する過程らしいけど
韓国でこんな風にしたら大騒ぎが起こるでしょうか?
https://www.otonarisoku.com/archives/japan-hangryu.html
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韓国の反応
石窟庵(wikipedia)
石窟庵(ソックラム、석굴암)は、大韓民国慶尚北道慶州市にある仏教遺跡。吐含山の麓にある。元々「石仏寺」と呼ばれていたが、「石窟」「趙家寺」などを経て、「石窟庵」と呼ばれるようになったのは、再発見・修復された日本統治時代以降である。
■発見と日本による補修
1909年、郵便配達員が配達のため吐含山の峠を越えようとしたところ、突然豪雨に見舞われ山中の洞窟に逃げ込んだ。その洞窟の中に偶然仏像を発見した。当時の石窟庵は崩壊寸前で、倒壊の恐れがあった。天井が抜け落ち、仏像に直接雨が当たり、周囲の仏像の配置もすでに不明で、全体の半分以上が土に埋もれていた。そのため、日本統治時代の1913年から1915年にかけ、日本により三度にわたる大規模な修復工事が行われた。工事には当時としては最新の技術であるセメントが使われた。
■韓国による補修
朝鮮戦争前後の混乱期に再び放置されたが、1961年から1963年にかけて韓国の文化財管理局の主導で補修工事が行われた。湿度の問題を改善するため、後部をさらにセメントで塞ぎ、全面をガラス張りにして人工的に除湿したが、見物客から排出される二酸化炭素などによる花崗岩の損傷が指摘されることとなった。また、1961年に建てられた木造の前室も換気を妨げる要素とされる。また、「仏像の配置は日本がデタラメに並べた」として、仏教の経典に照らし合わせ、独自の並べ替えを行った。しかしその補修後、発見当時の石窟庵の写真および事前調査の詳細な配置図が見つかり、日本が行った補修・配置が正しかったことが発覚した。しかし配置は今なお復元されていない。
海部 要三(著), 海部 多賀子(著)
ところで最近もあのようにするんですか?
韓国も崇礼門を全く新しく作ったのと同じなんだけど・・・。
崇礼門(wikipedia)
崇礼門(すうれいもん、朝鮮語: 숭례문(スンネムン))は、大韓民国のソウル特別市中区南大門路4街29にある門である。一般に南大門(なんだいもん、남대문(ナムデムン))の通称で知られる。
2008年2月の放火により、花崗岩製の石造の門を除いた木造楼閣の大部分が焼失した。2010年2月10日から2013年4月まで復元工事が行われ、翌5月4日に復元記念式典が行われた。
左:地震による破損前
右:破損後復元
鹿苑寺(wikipedia)
鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派大本山相国寺の境外塔頭。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は鹿苑寺(ろくおんじ)として知られる。
寺名は開基(創設者)である足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐[3]。義満の北山山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録される。
■放火事件(昭和25年7月2日)からの再建
再建金閣は、村田治郎らの指導で1952年(昭和27年)から再建に着手し、1955年(昭和30年)に落慶したものである。焼失前の金閣は1904年(明治37年)から1906年(明治39年)にかけて解体修理が行われていた。再建金閣は、この解体修理時に作成された図面をもとにして、焼失前の建物の構造・意匠を基本的に踏襲している。ただし、焼損部材の調査を踏まえ、旧状に復す形で一部変更された部分もある。
もっとも顕著な相違は、焼失前の金閣は三層のみに金箔が残り、二層には全く金箔が残っていなかったが、再建金閣では三層のみならず二層の外面も全面金箔貼りとしている点である。これは、次のような根拠に基づくものであった。明治時代の金閣の解体修理の後、再使用されなかった二層の隅木(屋根の四隅に用いられる斜材)の部分が別途保存されており、花入れに加工されて別途保存されていた。昭和25年の金閣炎上後は、この花入れ(旧二層隅木の一部)が唯一の焼け残った部材となり、この部材に金箔が押されていたことから、再建金閣では二層も金箔貼りとすることになった。建築史家の宮上茂隆は、もっとも風雨にさらされやすい部材である隅木のみに金箔が残っているのは不自然であるとし、二層には本来金箔は貼られていなかったとする。また、焼失前の金閣では二層の東面と西面の中央に連子窓が設けられていたが、再建金閣では二層の東・西面はすべて壁となっている。
現在の金閣は、前述のように明治37年から39年の解体修理の際に作成された旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、昭和27年3月22日から3年を掛けて復元再建されたもので、昭和30年10月10日に落慶法要が営まれた。その後、再建から10年あまりで金箔が剥落して下地の黒漆が見えるようになり、その漆も紫外線で劣化するようになったため、1986年(昭和61年)2月から翌1987年(昭和62年)10月まで1年8ヶ月、総工費約7億4千万円(当時)を投じて「昭和大修復」が行われ、漆の塗り替えや金箔の貼り替え、天井画の復元等の修復工事が行われた。この修復工事に際し、金箔は通常(約0.1µm)の5倍の厚さ(約0.45 – 0.55µm)の「五倍箔」約20万枚(約20kg)、漆は国産の「浄法寺漆」約1.5tが使用されている。
内海健(著)
単にそれが一番良いと思ったからです。
復元前には瓦が金色だったのに・・・
胴体を金色にするのがかっこよく見えるようだ。